生きてりゃ、たいしたことない -レーコ ツジさんの離婚体験記
ことの始まりは、娘が小学5年生の時だった。高校教員だった夫は、テニス部の顧問をしていた。テニスバッグの中に洗濯物がないかと開けてみると、ラケットと一緒に入っていたのは、何冊かのファイルだった。嫌な予感は、私の全身を走った。
その頃、携帯電話が急速に普及し始めた頃で、夫はしきりにいじるようになった。そして、不自然にも、隠し持つように洗面所に入り、暫く出てこないことがよく出て来た。夫は、私が気づいていないと思っていたようだ。私は何度も洗面所のドアを開けようかと思ったが、勇気が出なかった。そのうち、夜遅く、コンビニに行くと言って、出かけることがでてきた。こんな時間に、欲しいものがあるからと言って買い物に行くようなまめな人ではないのに。私の中にあったぼんやりとした不安は日毎に形を持ちだした。
当時、夫は教育委員会から現場の高校に異動になり、新たな学校作りを企画するメンバーの一員だった。帰宅は12時を回ることが多くなり、仕事後、同僚と軽く一杯やっているのだと言い聞かせた。いや、最初はそれを疑うことはなかったのだ。そのうち、子どもを寝かしつけて、私も夫を待つことなくベッドに入るようになった。というのも極力、夫の帰宅に関心がないようにふるまうためだった。そんなふうに、何とか自分を誤魔化しながら過ごしていた。そんな時だ。あのテニスバッグを開けたのは。恐る恐る開けてみると、A4のプリントが綺麗に整理されて入っていた。その文面に、理解がついていかない。と、同時に得体の知れない悪寒のようなものが私を襲った。読みたいが、読めない。それでも、容赦なく目に飛び込んで来る文字がある。「次は、私にチケットを取らせてね。」「これから、バーゲンに行って来ます。」無理だ。もう無理だ。私はファイルを閉じた。テニスバッグも元通りにした。それは、メールのやり取りをしている相手の女性からの返事だった。ご丁寧にも名前まで添えてある。職場の同僚だった。今から思えば、中学生の男の子が、親の目を盗んでエロ本を隠すようなあさ知恵だ。うんと嘲笑ってやればよかったと悔やまれるが、その時は、ただただ意気地なしの自分を憐れむだけだった。そして、その後すぐ、バッグの中からファイルは消えていた。夫の狡猾な部分が私に容赦なく突きつけられる思いだった。
そんな悶々とした日が過ぎて、歳も暮れ近くになり、例年の如く夫は年賀状を書き始めていた。リビングのテーブルで私に背を向けている。顔を見なくて済むということが後押しした。「この頃、おかしいのと違うか?」と、切り出した。夫は、無視して書き続けている。私は今しかないと意を決して、「今、二人の大事な話をしてる。年賀状なんかどうでもええ!」と、夫の態度をなじった。その日のその後のことは、全く覚えていない。しかし、ことは動き出した。
そもそも、両親から反対された結婚だった。若気の至りというやつで、分別のないことをしでかしたからだ。夫は地方の出身で、私の地元で教員になった。新採どうし、机を並べることになった。地元のことや仕事のことを喋り合ううち、距離も縮まった。彼はお金にルーズなところがあり、私がたてかえたり、奢ったりするうち、預金残高がみるみる減っていった。私の両親は、そのことに気づき、詰め寄られた。私は、本当のことを言うしかなく、当然彼のことも知れた。二人して頭を下げたが、許されることはなく、結婚など言語道断だった。それでも好きだった。誠意を見せて理解を得ようと誓い合って三年経った。そして、漸く祝福してもらえるところまで漕ぎ着けたのだった。結婚後は、小さなアパートだったが、むしろ、色々工夫するのが楽しかった。子どもを求めるまでもなく、二人で十分満たされていた。それから、七年経って、私が33歳になる頃、子どものことを考えるようになった。というのも、高齢出産という言葉が頭を掠めたからだ。子ども、子ども。産む条件は整っている。どうする?自問自答の末、産もうと覚悟を決めた。その決断に夫も喜んだ。幸運にもすぐに妊娠した。この状況に意気込んだのか、夫はマイホームの購入を提案した。時はバブル期。街中は建築ブームだった。私たちの収入にしては、ちょっと贅沢な買い物だったが、定年までには完済する計画を立てた。文句のつけようのないいい物件だと私たちは、大満足だった。
娘もできて、親子三人水入らずの生活が始まった。夫は、故郷から母親を招いて自慢げだった。学生時代に心配をかけた母を安心させたかったのだろう。私はといえば、子育て、家事、仕事と、かなりきつかったが、一所懸命働いたし、この生活を100%肯定できた。ずっとこうして、子供の成長とともに夫婦も年輪を数えていくのだろうと思っていた。それが、どうしてなのだろう。緩い坂道をくだるように徐々に見える景色が変わってきた。子どものことで、諍いが増え、仕事のことで、溝が深まった。段々と私は夫を疎んじるようになり、夫はよその人に傾いていった。これが20年近く経った夫婦の姿だった。
これからどうなっていくのかと、不安を募らせながらも、離婚という現実は考えていなかったころ、私は夫に言った。「こういうことには、周りは敏感やで。仕事にも影響するし、信用を失うで。やめなあかん!」と。この忠告は、まだ、私が夫の側にいることを教えるものだった。しかし、夫は「ほっとけ!」と、私に食ってかかった。この仕打ちが、私の気持ちを決定づけた。最早、選択の余地はない。離婚が現実のものとなった。
さて、そうなると、次に待ち受けているのが、離婚に伴なう厄介な問題というわけだ。親権、慰謝料、養育費、マンションの返済金等々。狡猾なその男は、最後の最後まで、自分の非を認めなかった。裁判所に足を運んで、私は、親権を死守した。子育てのこの字もヤツはしなかったのだから当然である。慰謝料などクソ喰らえだ。あとは全て折半でケリだ。僅かの養育費でつべこべぬかすな!と。この決着に、馬鹿女が自滅したと、計算高いその男はほくそ笑んだに違いない。結果、私に残ったのは、莫大な借金と譲れない矜持だった。誰に何と言われようが、それでいいと私は決めた。これを私の軸にすると定めたのだから。そして、もう一つ残ったものがあった。腹の虫だ。これを収めなければ終わらない。私は最後に「別れやすい女で、感謝しろよ!」と凄んでやった。たかだか中学生程度の浅知恵しかない男の頭など、お見通しだと。
さあ、これからは娘と二人、生きて行くことになる。離婚のことも私が話した。あの根性なしに、話せるわけがない。小学5年生の女の子は、世間が思うより、世の中の諸事情というものを知っているのだろう。「何で?」とも聞かなかった。もうすでに、女性の思慮を身につけている。
それから、何日か経った頃だった。彼女はこう言ったのだった。「お母さん、こんなこと言うのはおかしいかも知れんけど、これから新しい生活が始まるかと思うと、なんかワクワクする。」と。やれると思った。これからも。私は、頑張れると確信した。女同士の強固な同盟結成に私の心もワクワクした。
今、わたしはもう年金暮らしの身だ。娘はといえば、二人の女の子のお母さん。夫婦で、力を合わせてやっているようだ。
離婚という経験は、私に、道の真ん中を大手を振って歩いていては、見えない景色があるということを教えてくれた。自分で真剣に考えて、答えを出していくという知恵と覚悟を授けてくれた。そして、ちょっぴり優しい人間にしてくれた気がしている。