あきらめなかった夢、新しい家族のカタチ -花森はなさんの離婚体験記
私の夢は、自分の家族を持つことでした。
小学校や中学校の文集に、そんな夢を書く訳にはいかず、その時なりたかった職業を書いたのを覚えています。
両親がいなかった訳ではありません。母親は何度か離婚と再婚を繰り返し、養父からは疎まれて生きてきたというだけで、普通の家庭というものに多大な憧れを抱きすぎていたというのもあるのでしょう。
そんな私が結婚したのは23歳の時でした。周囲からは飛び抜けて早く、人生経験もまだまだというところでしたが、私はとにかく少しでも早く「結婚」がしたくてたまりませんでした。自分の家族が欲しい。帰宅した時に家の明かりが点っているのを見て、絶望的な気持ちにならない家に帰りたい。それは私の切実な願いで渇望でした。ごく一般的な家庭に生まれ育った夫となら、叶うと信じていました。
新婚当初の私はそれはもう頑張りました。どうしてもこの土台を失いたくなく、結婚した途端にモラルハラスメントがひどくなった夫の「お前の友達はみんな離婚顔やな」というせせら笑いや連日の飲み会参加、姑からの「本当ならアンタみたいな家の人間とは結婚させないんだけど」という嫌味、成人女性として平均的な体型の私への「アンタほんとデブやな!着る服あるん?」という罵りに対して、ずっと黙って耐えていました。耐えているというより、自分の育ってきた家庭環境が他と違いすぎて、それが「おかしい」ということに10年以上も気づかなかったのです。
「おかしい」と気づいたのは、当時小学3年生だった息子が不登校になったことがきっかけでした。原因は「学校の先生が怖い」という理由でしたが、あまりに怯えるので児童精神科に通ったり、付き添い登校を続けるうちに、夫の真実の姿が見えてきたのです。
「学校嫌だ!先生が怖い!行きたくない!!」と泣き叫ぶ息子の横を無言で通り過ぎ、優雅に朝のシャワーを浴び、「着替えは!?」と要求する夫。出張がある日は「用意は!?」、そして「俺の飯は!?」と、私が息子にかかりきりになればなるほど、空気を無視した要求はエスカレートしていきました。息子の癇癪や夜泣きがひどくなると、「俺がいても邪魔やろうから」と飲みに行く日が更に多くなり、暴れる息子と幼稚園児の娘の世話は、完全に私ひとりだけの仕事となりました。
珍しく自宅にいたと思えば、夕食の品数を要求し、6品も7品も並べても「何も食べるもんがない!」。ビールがぬるければキレ、なければコンビニに買いに行かせる…今思えばただの暴君ですが、息子が学校に行けなくなったことにより、自分の仕事ができなくなってしまったので、おかしいと思っても子供のことを考えて、これまで通りなんとか耐え抜こうと思いました。それでも母親のこれまでの配偶者のように、喫煙や借金はないのだからと、自分に言い聞かせながら。
「離婚」の文字がハッキリくっきりと見えたのは、夫が私の不在中にパニック発作を起こした息子を馬乗りになって殴ったことでした。そして殴ったあと、更にパニックを起こして泣き続ける息子の世話を、幼稚園児の娘に押し付け、自分は2階でスマホゲームに興じていたのです。
どうして発覚したのかというと、外出していた私が自転車で帰宅した時、家の中から階段を駆け降りる音がしました。(おかしいな?)と思い、急いで玄関のドアを開けると、泣きすぎてボロボロになった息子と不自然にソファでくつろぐ夫の姿があり、娘が私に飛びついてきました。夫は「帰りが遅い」とだけ言い捨て、再び二階へと上がって行きました。娘がまず「お父さんがお兄ちゃんを殴った!」と教えてくれ、そのあと息子に事情を聞くと「宿題わかれへんくて…パニックになって、お父さんを殴ってしまって…そしたら『舐めてるんちゃうぞ』って殴られて……」となんとか、ゆっくりと話してくれました。自分の家族が困難に陥った時、助けもしない、傷つけることしかできない人間は、家族でもなんでもない。もう、離婚以外の選択肢はありませんでした。
そこからの行動は早く、少しづつ学校に再登校できるようになっていった息子のケアと、パート探しを同時におこない、弁護士探しも始めました。パートは幸い、すぐに見つけることができました。結婚前にやっていたグラフィックデザイナーのスキルを生かして、アパレルメーカーの画像処理スタッフとして採用されたのです。
仕事が見つかると、これまでおそらく曇っていた視界が一気にクリアになりました。姑の暴言に言い返すことができるようになり、夫の理不尽な要求も無視できるようになりました。私の口からではなく、子供たちの口から「お母さん、仕事決まったんやで!」と告げられた夫は、やはりどこか離婚を覚悟していたのでしょう。
「離婚せんでも、俺がこの家を出て実家に住むから。お前らはここ住んだらええやん。その方が金に困らんやろ」
それは確かにその通りです。ですが、もうお金の問題ではありませんでした。
私はもう、こんな人間と一刻も早く家族であることを辞めたかったのです。
妻も、子供も、大事にできなくて。出てきた言葉は「金」。呆れて物も言えませんでした。
離婚が決定した翌日、夫は会社からメールでエクセルデータを送ってきました。養育費や貯金、住んでいる家を売却した場合の予算額です。あらかじめ用意していたのでしょう。家族を捨てることに躊躇がないなと思いました。そしてその中に「再婚した場合は、養育費はストップします」と記されていました。
養育費は、子供の権利です。私の母が最初の離婚をした時に、離婚の条件は「養育費を一切払わないこと」が条件でした。幼い頃の私の家庭は常に困窮していました。当時の離婚は難しく、それほどまでに父親と別れたかったのだなというのは推察できるのですが、権利は権利です。
弁護士さんには既に相談し、条件をまとめていただいていたので、それを提示。そして「養育費は子供の権利であること」「再婚しても支払い義務はあること」を、弁護士さんからの意見と共に送付し、納得してもらいました。私の言うことは何故か耳を通らないけれど、他人の言うことは響くのです。18年の結婚生活、私の意見が通ることはほぼありませんでした。それどころか「えらそうに」「何度も殴ってやろうかと思った」とまで言われてきて、踏み躙られてきた私の人権は、離婚という形で復権したのです。
離婚して、引っ越しをして。まだ片付かない部屋から、子供達と三人でコンビニに夕食を買いに行った時の高揚感を、私は生涯忘れることはないでしょう。秋なのに空気は生ぬるく、星は澄んで綺麗で、街灯の明かりが眩しいくらいにキラキラとしていて、未来に不安はあれど、心は自由でした。
私の夢は叶いました。自分の、自分だけの家族がいます。そして今の夢は、子供たちと幸せになることです。